昭和46年2月20日 朝の御理解
入力者 大坪れい
御理解 第71節「ここへは信心のけいこをしに来るのである。よくけいこをして帰れ。夜夜中、どういうことがないとも限らぬ。おかげはわがうちで受けよ。子供がある者や日傭取りは出て来るわけにゆかぬ。病人があったりすれば、捨てておいて参って来ることはできぬ。まめな時ここへ参って信心のけいこをしておけ。」
先日、え~の、合楽会、ね、17日にあったのかな、え~色々、合楽の指出の方の、村区の方達が、この頃熱心にお参りをしておった方達が、お参りができなくなっていった。その方達が、先日は( ? )ました。久保山さん達のご兄弟やら、他の方達も見えとりましたが、まぁ一人ひとり話をきかせて頂いて、まぁ信心は顕在であるということで、安心しましたと言うて、私はいうたことでしたけれども、やはりここで、まぁ信心のけいこをしばらくでもされて、信心の有難いということを分かって、やはり、お参りはしてこんけれども、おかげは受けておられるということ。
もう、久保山さんの発表しておられました、ですけど、先日あすこは、一番の信心の始まりが、あのお風呂からでしたが、そん時もやっぱお風呂の話をしておられました。先日またあの、信心が( ? )自分に、え~( ? )ことが起こってから、というてその、お風呂の、きれいなタイル板のお風呂だそうですが、( ? )たいたと、そのエントツから、そのこけのような、ものがどんどんでてから、もう今度は風呂を崩してしまうだろうと思っておった、思うようであったと。それをもう一生懸命に金光様、親先生というて、気がつかせて頂いてから、お願いさしてもらった。
それで、主人がもう水ば入れろて言うけ、そげなこっちゃいかん、とにかくお神酒さん頂とったつがあったから、あのお神酒さんを先に頂いてというて、まぁさして頂きましたら、まぁ今、私共のように、無信心になってお参りはできませんのですけれども、おかげは頂く、まぁちょっと傷を出しましても、体が悪かっても、やはり御神米とお神酒さんだけでおかげを頂いておる。もう朝晩、まぁすぐ側ですけれどもね、やはりこちらの教会の方を向いて、金光様、親先生とまぁ御祈念さしてもらうと、ほんとに不思議におかげを頂きますというて、お話をしておられ、みんなやっぱそんな話をしておられるわけす。
そこで分かることは、なるほどお参りはしなくても、ね、一心にお願いをすればおかげを頂くことは分かりますねというて、お話をさして( ? )でしたけれどね。
確かにそうです、ね、夜夜中、どういうことがないとも限らん、ね、どういうことが起こっても、そこに金光様と、天地金乃神様のお唱えさしてもろうて、おすがりをする。そこからね、確かにおかげが受けられる。けれどもその、ここには信心のけいこにくるとこだと、また最後に、まめな時ここへ参って信心のけいこをしておけということ、ね、皆さん、おかげを頂く( ? )頻繁にお参りしなくてもいいです。家で結構、忘れさえせんで、一生懸命金光さまに、おすがりをする、お参りをする、御神水を頂き、お神酒さん、御神米で、さぁ( ? )間に合おう、おかげは受けられる。
はぁ~、ね、けれども、どこまでもここへは信心のけいこに来るところであり、しかもまめな時、平穏無事な時、何でもないとき、しっかり信心の、ここへ参って信心のけいこをしておけと。ね、それですから、おかげを頂くために、お参りをするというような、目指しというかね、目的。やはりどうかあります時、やはり難儀を感じます時には、家にじっとしておられん、やっぱり早ようからでも、一修行させて頂いてでも参って、お取次ぎを頂いて、お願いをしないければ安心がいかん。ね、
まぁそれもありますけれどもね、ならそういうことを通して、一つ信心のけいこをしっかりしとかなければならんということです。そこでんなら、信心のけいこをさして頂くならね、え~どういうことを、んなら目的に信心のけいこをするかということです。ね、やはり、焦点というか、目的というものがはっきりしとらなければいけん。ね、おかげを頂く為に信心のけいこをするといや、まぁそれまでですけれども、そのおかげの展開です、ね、どこに信心のけいこの焦点を置くかと、その目的をハッキリ定めて、そして、それに向かって、信心のけいこをさしてもらう。
いわゆる、この的なしに、いかにですね、弓のけいこなら弓のけいこ、鉄砲のけいこなら鉄砲のけいこをしても、ただ打つだけじゃいかん、ただこうやって弓を、その満月のように引き絞って、ただ(?)このいるだけではいかん。やっぱりそこには、一つの的がある。その的へ向かって、やはり一心不乱にけいこをさしてもらうということにならんと、けいこがけいこにならない。ただ参っておるだけ、というのは、ただ、その弓なら弓を、こうやっていきなり打っておるようなもんじゃないでしょうかね。
それが例えば、んなら、例えばこれとこれのおかげを頂かなならんから、参っておる、なるほどそれも稽古になります。けれども、本当の信心の稽古というのは、そうじゃない。それはおかげを頂く稽古である。おかげを頂くコツだけを覚えていくという(?)。それでは私は信心の稽古にならん、信心はどこまでも、ね、いわゆる信心の稽古でなからなきゃならん。ね、いよいよ、動かない、いわゆる確信、確信に満ちた生活ができるためのけいこ。そのために、ひとつ本気で、和賀心になる稽古。ね、信心とは、和賀心が神に向こうのと仰るように、和賀心がいわゆる信心、神心に向かって進んでいっておることを楽しみに、信心さしてもらう。ね、
どこまでも、いわゆる信心のけいこ。ここには信心の稽古にくるところ。果たして私共が、信心の稽古になっておるだろうか。ね、しかもその信心の稽古であるところの、稽古さして頂く、その材料というものは、自分達の生活の中にあるのである。毎日毎日の生活の中にある。もう私はこの信心の稽古ということを本当に思わして頂いたら、もう実に、信心が有り難い。いわゆる、確かなものになってくる。( ? )私の控えには、3代金光様のお書き下げを頂いておる。「信心のけいこ」と、(色紙に頂いておる?)。
それが( ? )、私、金光様のお写真の下に、それが、毎朝毎朝、金光様の写真に向かって、え~ご挨拶を申し上げます時に、その信心のけいこと、書いておられる、それを見て、はぁ今日もまた信心のけいこをさして頂こうとこう、さらな心で思わせて頂けれる。ね、もう本当にその信心のけいこということね、もうあらゆる機会、あらゆる事柄を通してです、そのことを通して、信心のけいこをさして頂く。ね、お互いですね、なるほど信心の、( ? )と申しましょうかね、信心のけいこをさして頂く、そういう付いてくるおかげをと、そのおかげが、いうならば、億万長者にもなりたい、家庭円満のおかげも頂きたい、ね、健康のおかげも頂きたい、それはただしね、信心の余徳なのです。
余徳によって頂くおかげでなからなければいけんのです。でないとね、その頂いたおかげがです、いうなら、健康が、人間関係が、または経済のことがです、頂いたおかげがです、実に空しいものになるです。健康を持て余すようになるです。せっかく頂いた( ? )です、空ろなものになるです。ね、そういう例えば、まぁ幸福の条件ではありますね、健康であることも、ね、家庭が円満であるということも、ね、お金を沢山貯めさして頂くということも、絶対幸福の条件ではあるけれども、それが、絶対なものではないです。ね、幸福の、条件ではあっても、その証拠には、沢山のお金を持って、健康でという人が、一つも幸せを感じてない人が沢山ありますでしょうが。ね、
ですからもう、よくよく一つここんところをですね、あの、分からして頂いての信心の稽古でなからないかん。私昨夜の御祈念に、皆さんに聞いて頂いたんですけど、昨日、それこそ久しぶりで、テレビを見せて頂いとりましたら、あの「男は度胸」というのが、あってましたね、え~、(?)その~、まぁ色んな人が出てまいりますから、その~( ? )分からない感じだったんですけれど、昨日はあの~柳沢( ? )ですかね?時のまぁ影の権力者として、大変な権力者であったと、あの~紀伊国屋文左衛門の出会いの所があっとりました。ね、
柳沢あ~( ? )が、そのも~最高の権力というもの、権力というものがね、この頃はもうイライラの元、ね、あの人は、え~15か6かの時に、御小姓に上がりましてね、依頼、え~その、まぁ成功の一途を辿った、まぁ十進十世をした人らしい。ですからその~本当に若い時から、ず~と人の顔色ばっかりを眺めてきた。いわゆる人間性というものを空しゅうして、ただ、人の顔、(?)の顔ばかりを見て、成功のおとだけを考えてきたと、自分でも実感しております。人間らしい生き方をしてこなかった、それに引き換え、紀伊国屋文左衛門は、自分のしたい放題のことをして、( ? )得ておるというのです。ね、お前の生き方の方が、やはり人間的な生き方だったと。ところが殿様、最近私は、その虚版の(?)がです、もう実に空しい、空しいものを日々感じておりますと言うております。
なるほど、お金を持って人も動く、お金を持って自分の良い、いわゆる、どのような事もでけてきた、けれどもそれが、いよいよ空しいものになってまいりましたと言うておる。そして、いわば、あの~ある花、あの~桜時の花見をして、それを境にえ~店の物全部に、財産の全部を分けてやって、( ? )いわば、家内と2人で長屋住まいをしようというような、あの~筋のところが、今日ちょうどあっとりました。ね、だから本当にこれは、もう本当の事なのですから、どのように素晴らしい、いわゆる権力者になろうともです、どのように億万の金を貯めさして頂く分限者になろうともです、ね、行くとこまで行ったら、いよいよ空しさというもの、だけしか残らないということです。ね、
それこそ一遍、億万長者になりたい、一遍権力者になりたい。まぁ誰でもそういう夢を持たんわけではありません。けれどもね、ただそのことが、もしんなら、目的で一生懸命働いたり、んならその為に、一生懸命信心をしておるとするなら、信心の稽古をさして頂いておるというても、そういうことのおかげを頂くことの為に、信心の稽古をしておるものであるとするなら、それはもういよいよ、おかげを頂いた暁が、空しいものになり、しかももう、空しいものであると気が付かせて頂いた時には、もう人生のいわば、終着駅に近づいておるというような時に、分からして頂いたんじゃ、もう遅いということなんだ。
ね、
だから今日私が申します、その私共の幸福の条件ではあってもです、なら幸福の絶対の物ではない、金も人間関係も、ね、健康も、ね、それはいわゆる、真の信心のけいこ。本当の信心のけいこをさして頂く、ものに対する、それは余慶である、余徳である。余慶というのは、余くて慶ぶと書いてあるね、余慶。そこで信心のけいこの観照というものがです、どこに置かれなければならないかと、またどういう姿勢であらなければならないかと、いうことを、一つ本気で極めていかきゃなりません。
食物訓に「何も食うにも、飲むにも有難く頂く心を忘れなよ」とありますね、何も食うにも飲むにも、有難く頂く心を忘れなよ。信心のけいこの私は焦点というのは、私はそこに置かなければいけないと、これは食物訓ですけれども、何を飲む、どういうようなことでもということ、日々の生活の中に起きて来る、ね、その自分の心の糧といったようなことを申しますが、心の糧になるものに、していくことのためにね、全てを美味しゅう頂かなければならない、有難く頂かなければならないと、食物訓に、ここに教えておられるように、どのような事柄でもです、それが自分の心の糧として頂けれる姿勢。ね、
心をいよいよ強いものに、心をいよいよ豊なものにしていくことの為に、全てを頂かなければいけない、有難く頂かなければならない。しかも、有難く頂けれるところまで、それを押し進めていかなければならない。ね、苦い問題があります。苦しい悲しいこともあります。けれどもそれを、ただ苦いことだ、苦しいことだ悲しいことだにしたのではです
、ね、もうそれはそれまでのこと。ですから、その苦いなら、苦い問題なら苦い問題をです、有難いと答えが出るところまで押していかなければいけません。
今日、私御神前で、御祈念中に頂きますとが、このいわゆる「押す」という字ね。て偏に甲という字が書いてある、そすと、哲学の「哲」という字をこう、折れるという下に、口という字が書いてありますよね、哲という字。その漢字で、その2文字を頂きましてね、どういうことであろうかと思わして頂いとりましたら、今日71節を頂いて、いわゆる、信心の稽古ということに、を頂きますから、はぁはぁ~信心の稽古は、もう押しの一手でいかなければいけないなぁということだと。押していくということ。ね、
押しの一手なんです。ね、先ほどから申しますように、なるほど的、そういう間違いのない真の信心を目指して、信心のけいこをしよる、いわゆる、弓を、弓の稽古をするようなものなんだ、ね、だから、いうなら引いても引いても的が当たらない、ね、けれども、当たらない時にはです、まぁだ稽古が足りないのだと思うて、一生懸命稽古していく以外にはないのだと。どうして当たらんじゃろうかと、神様も当てにならんと、(?)こっちの方が当てにならんこと、こちらの方の信心の方が本当のもんじゃないことを、悟らせてもらって、神様は絶対のものとしてです、的が動くはずがない、だからその的を向かって、的に向かって、一心不乱に稽古をする。それを私は押しの一手だとこう思う。ね、
百発百中当たるようになる、百発百中全てがおかげの元になる、ね、もうけいこはね、この押しの一手でいく以外にはないです。ね、もう皆さん、これは本当にそうなのですから、これはもう私の体験からでも言えることなんですから、皆さんが私の信心を見ておって下さってから、それを思われるでしょうが。どんなことがあっても、どんな問題であってもです、それをもう絶対の芯を持ってです、ね、絶対の芯を持って、そのことを通して信心の稽古をさして頂いて、有難いことだという答えを出していっておるんです。だから、ことあるたんびに、私の信心は大きくなっていくし、おかげがあかぬけしてくるんですよ。
そうでしょうが皆さん。もうそれ以外にはないです。ね、そういう信心にです、余慶。いわゆる余った慶び。その余慶にです、いうならば、今日私が申します、幸福の条件であるところの、健康もまた経済の上のことも、ね、様々な難儀といったようなことが、おかげとして、ね、余徳として現れてくる。余徳としてついてくるのです。みなさんが持っておるところの問題、または難儀というものがです、どうしても、はぁこの難儀様のおかげでと、難儀に様がつくようなところまで、いかなければいけないということなんです。ね、
この難儀様のおかげで、このような事が分からしてもろうた、ね、ということになる、そこにもう焦点をおく以外にない。押しの一手。一つ、その押すという字を、今度は分解して下さい。て偏に甲という字が書いてあるでしょう。ね、てというのは叩かれるということですね。打つということです。例えば、叩かれてもです、ね、そこから有り難いという答えを出していくということがです、いわば、甲であり、ね、まぁ甲( ? )色々まぁありますよね、だからね、例えば叩かれれば叩かれるほど、有り難となってくる、叩かれれば叩かれるほど、良い音色を出してくる、それは丁度、鼓のようなもの、(ちどりがけ?)、自分の思いにはならない、こうちどりがけになっていく、右と願っても左、左と願っても右になる、しかも締め上げられるだけ、締め上げられる、ればれ、であればあるほど、良い音色を出すのが鼓であります。ね、
太鼓なんかも、やっぱそうです。締め上げられれば締め上げられるほど、良い音色を出す。(拍手2回)これが甲です。ね、( ? )どんくらいでしょうか。これだけ信心するのに、ね、どうしてこげん叩かれなならんことになるだろうかと。これだけ信心しよるのに、どうしてこんな事が起こってくるだろうか、というのはまぁ、へいぐらいじゃないでしょうかね。ね、これはまぁ~だ自分の信心が足りんからだと、まぁそれが、有り難くは頂けないにしましてもです、自分の信心の足りないこと、自分の改まりの足りないこと、自分が本気で磨くということの足りないことを気付かしてもろうてです、これはまぁ~だ、信心が足りんからだと進めていくと、前の方へ押していくという生き方が、まぁおつぐらいなもんじゃないでしょうか。ね、
ですから皆さん、一つの問題をね、やはり合格点をとっていきよるかどうか(?)。もう実をいうたら、ね、甲を取る、取らねばならないように、教えられておる訳ですけれどね、ここでは。けれども、時々には「どうして」というわけなんです。ね、そしていわば落第ばかりをして、信心もまた堂々回りばっかりをしておるという事になる。そりゃもう本当に、悲しい程に分からないですね、皆さん。もう本、もうそげなんことでも、まだ分からんのと、これだけ信心さしてもらいよって。ね、誰々さんが、言うてもう人のせいにする。もう本当に悲しいことですよ。
信心の稽古をさして頂いて、ね、道理の上にもよ~分かっておりながら、いよいよん時には、それを人のせいにしたり、ね、その問題が他の方からやって来るように思うておる。ね、それでは信心のけいこにならない。ね、次には、いわゆるこの、哲する哲ね、折れる口と書いてある。だから私はそれを思うた、信心の稽古ということは、自分の言うておることをね、もう決して曲げてはならない。お取次ぎを頂いて、こういう修行をさして頂きますというたらね、それを絶対曲げてはならん。というようなね、信心には姿勢が必要です。ね、
不平を言いません、不足を言いませんと、どうぞ稽古ですから、なら今日、せめて今日一日だけでも、不平不足は言いませんとこう決めたらです、神様に誓こうたらです、それを曲げるようなことがあったてはならんち、どんなときでも。断食をさして頂きますち、と言いながら、ね、こっそりこっそり、飲んだり食べたりするなら、もうダメだということ。朝参りは必ずしますと決めたらです、もうそれこそ( ? )でもさしてもらうという、ね、あの信心。そういう稽古の姿勢というものを、一つしっかり作らなければならないということ。ね、いわゆる徹していけということなんだ、そのことに徹するということ。
それをんなら、私がこう( ? )を分解、分解すると、ね、口を(あない?)と書いて、言うておることを曲げないということなんです。ね、口に真かかげつつ、心に真の無きことなんです。お互いね、せっかく信心の、んなら稽古をさしてもらう、ここには信心の稽古にくるところと仰る。だから、今日は何を持って稽古の材料にさしてもらおうかと、日々私はそれを思い、練りださらなければいけん、思い練らなければいけん。ただ、漠然と参っておるとするならです、それは丁度、的のない、標的のないところへ、さっさとこうやって弓の稽古をしよるつもりでおるだけ。信心の稽古をつもり、しよるつもりではいけん。ね、
それが百発百中とはいかんでもです、段々段々本当のところに、ピッシャと当たる回数が多なっていくことの、楽しみというものがなからなければいけん。だから、その本当なこととは、どこに本当なことを置くかということを、皆さんに申しました。また、その稽古をしていく姿勢、体制というものを、押すという字と哲という字から、皆さんこう、聞いて頂いたわけですね。しかも、この71節に、ね、信心の、ここには信心のけいこに来るところとあり、最後にも、ここへ参って信心のけいこをしておけと、こう言っておられます。その中はです、ね、先ほどから合楽の方の例をとって話しましたように、お参りはしなくてもです、一心に金光大神、天地金乃神を唱えて、願えばおかげは受けられると。おかげだけなら。ね、
けれども、信心の稽古には、ここに通うてこなければ信心の稽古にはならない。どんどん、どんどん、新しい信心の知識というものを身につけていくことのためには、ここに通うてこなければ信心のけいこにならん。ね、しかもお互いが持っておるところの、様々な問題というものを通して、信心の稽古をさして頂くということ。もう信心をここに極まったとしてです、ね、いわゆる、食物訓のそれではないですが、何を飲むにも、食うにも、有り難く頂く心を忘れナよと。どのような問題でも、これを有り難く頂くということをです、焦点にしなければならない。ね、
そして、今日は、ね、例えば、甲でいったか、押すでいったか、へいでいったか、ね、日々を私はそういう気持ちで、はぁ~今日はおかげで、まぁ甲じゃったじゃろうと、今日は失敗して、きょうはもうへいじゃったとこう。そこから次のまた、改まった信心にならしてもろうてです、ね、一つ全甲のおかげを頂けるような、一つお繰り合わせを頂かないかん。そこに、焦点が置かれての信心。その稽古のいわば、度合いがです、全てのおかげ、いわゆる今日は、その余慶と申しましたね、または余徳とこういう風に申しました。そういう信心について来るものなんです。
「積善の家に余慶あり」という言葉がありますね。積善というのは、善を積むということ。そういう家には必ず、余った喜び、かならず喜びというものは付いてくるんだという意味なんです。ね、私共は、積善ということ、いわゆる徳を積んでいくという生き方、には必ず余慶がある。んなら、徳を積んでいくということは、どういうことかというと、全てを有り難く受けさして頂くという姿勢。ね、そこに信心の稽古を、の、焦点を置かなければならん。それを、有り難く受けさして頂くことのために、一つのいうならば、計算法とでも申しましょうか、ね、難しい、それが数学なら数学と、それをその説き方をね、日頃けいこしとかなければ、それは難しい問題がある。
簡単に、はぁ~ね、はぁそれはおかげがのと、例えば人が悔やんでおっても、おかげと言えれる場合と、こればっかりは、おかげと思われないと言ったようなことが、あるのですから、ね、それをんなら、計算していくうちにです、おかげという答えがでてくる、喜び、有り難いという答えが出てくるところまで、やはり計算して( ? )。だからいかにも、かっておるようであるけれども、自分の家で帰ってする時に、その一つの応用問題のようなものですから、やはりえ~、また失敗したといったようなことにもなりますけれども、そこんところ、けれども、焦点はね、自分の計算が間違えてあるということを、分からせてもろうて、ね、正確な計算ができる稽古を、しっかりさして頂かなきゃならん。
ここへ参って信心のけいこをしておけ、ここへは信心のけいこへ来るところぞ。んなら、稽古の焦点、または稽古さして頂く姿勢といったようなことを申しましたね。どうぞ。